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ジジツを見る
 さくらが満開を迎えた。子供の頃はさくらという花は今ひとつ好きになれなかった。花というよりあの樹全体を、である。あれはよく見ると随分と不気味な樹だ。梶井基次郎の「櫻の木の下には」を読んだとき、自分の持つイメージに非常に近いものがあって驚いたりしたものだ。
 それから幾星霜、近頃はさくらを見て、ふと美しさを感じたりするようにもなった。逆説的だが感受性が鈍麻したのかもしれないな。とほほ。

 自宅近くを流れる川に覆いかぶさるようにして、明日か明後日には満開かという風情のさくらが枝をしならせている。その様が美しかったので、知人に送ってやろうとカメラ(っちゅうかすまほ)を構えた。ところが、できた写真を確認するとどうもしっくりとこない。さほど美しくないのだ。距離をつめ、また離れ、アングルを変えて何通りか撮ったが、やはり今ここで肉眼で見ているほど美しくは見えない。しばらく画面を見て気づいた。
 さくらの下を流れる川にゴミ袋が浮いていたのだ。のみならず、少し離れた所には壊れたカサが。これでは台無しだ。美しい写真になるワケがない。しかし待てよ、肉眼で見ると、やはりそれらのゴミが視界に入っていながら、なお花は美しいのである。これはどうしたことか。なぜそれが写真には写せないのか。ナニ、写真撮るのがヘタ?うむ、そうかもしれないが、それだけではない。
 
 これはつまり、我々がなにかを見るときには多かれ少なかれ「集中」せずにはいられない、ということではないか。別のいい方をするなら「フォーカス」するとでもいおうか。美しいと感じた瞬間、目はさくらに「フォーカス」し、同次元的に存在するゴミ袋は気にならなくなる。これが気分次第ではゴミ袋の方にフォーカスし、そうなるとせっかくのさくらは意識に上らなくなるに違いない。そしてどちらにフォーカスするにせよ、それは一種の「脚色」といえる。
 どうせなら「美しく」ものを見たいものだが、脚色という意味では同じことである。それらは「事実」そのままではない、ということだ。

 よく心理テストなどで使われる話題に「コップ半分の水」というのがある。コップに半分だけ入っている水を見て「半分もある」と思うか「半分しかない」と思うか、というアレだ。よくできた話だと思う反面、あんなので心の傾向がわかるなら苦労はないような気もする。

 これについて、個人的には「水が半分入っている」という風に考えたい。楽観でも悲観でもない、考えようによっては面白くもなーんともない意見かも知れないけれど。それ自体は変わらないさくらを見て、今日は美しいなぁなごむなぁなどと言っている自分が、かつては同じものに、この上ない不気味さを感じたのだということを忘れずにいたい、そう思うのだ。

 それができたからって、どうってこたぁないんだけどさ。

未分類 | 02:04:23

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