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自由じゃ困る
「自由に、感じるままに」いい言葉だ。早春のある晴れた朝のように希望に満ちている。だが「自由」というのは意外に一筋縄ではいかない言葉だ。

 バンクーバー冬季五輪が終わった。
 銀盤を自在に舞うフィギュアスケートは、いかにも「自由に」見えるけれど、実のところ全然自由なんかではない。綿密な計算の基、リンクの全面を最大限活用して、しかも所定の技をきちんと盛り込んで・・・と考えると、自由に見えるのは選手が修練を積んだ結果による、美しい錯覚だということがわかる。

 音楽も同じで、自在に歌い、奏でているように「見える」だけで、実際には様々なセオリーに則った、ある種の制約の中でのパフォーマンスとなる。完成度という言い方は、だからこそ生まれる言葉で、心のままに、感じるままにとやっていては、言葉の心地よさとは裏腹に、完成度の高いものは生まれない。それが出来るのはほんの限られた天才たちだけだろう。

 そもそも完成度とは何だろうか。
 ジャズやポップスに較べ、奏者の自由度が極端に制限される、クラシック音楽などにおいても「自由に」「鳥のように」などと形容されたりするが、実際にはその技術を得る為に、まずはあらゆる自由を制限するところから訓練が始まる。それを経て初めて自由自在に見えるように(或いはもしかしたら本当に自由に)なる。
 
 制限というと、なにか不自由な、どちらかといえば悪いイメージを持つ言葉だが、こう考えてくると極めて重要であることがわかる。音楽もフィギュアスケートも、制限が完成度を生む土壌となるのだ。

 制限といえば、学生の頃、作文とかナントカ感想文というのが割に好きだった。大抵の場合学校側からお題が与えられたが、体育大会については「こんな行事いらない」と学校を批判し、通学路清掃行事では「誰のための清掃か」を論じるイヤ~な生徒だった。あー、楽しかったなぁ。
 しかし一度だけ、ついに何も書けなかったことがあった。確か中学生の頃だったかと思うが、いつもは何らかのテーマについて「書かされる」のに、その時はどういうわけか「自由作文」であったのだ。そういうのは初めてのことで、何でもいいから書きなさいと言われると、どうしたことか何も出てこなくなった。とりとめもなくあれこれと考えているうちに時間がきてしまい、名前だけ書いて提出したら叱られた。
 つまり、それまでは与えられた制約があったからこそ書けていたのだ。与えられた制約の中で書くのと、「制約」そのものを探すのとは、えーと、ヤリナゲとナゲヤリくらい違う作業である。だが大人になると、制約そのものを自分で設定せねばならないことがままある。自らにいかに上手く「お題」を与えられるか、ということだ。そんなことは学校で教えてくれないから話がややこしい。

 バンクーバーでの超人達の勝負を観ながら「制約と自由」などという言葉がふと浮かんだ。
 
 そう、あまりに「自由」なのは、かえって不自由なのだ。たぶん。

未分類 | 02:36:35

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