スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | --:--:--
交差点にて
 深夜、人通りも絶えて久しい時刻。のろのろと自転車で帰宅する途中、赤信号でブレーキをかける。右を見ても左を見ても、行き交う車など影も見えない。はっきり言って待つ意味などほとんどないに等しい。それでもふと気まぐれで停まってみた。

 ややあって、後方からカップルが二人乗りで自転車を転がしてくる。彼らはそこに赤信号など存在しないかのように、減速するでなく、左右を確認するでもなく、信号待ちをしている僕をとろとろとろ~っと追い越してゆく。二人の姿が前方の闇に消える頃、遠くから排気音が近づき、やがてやけに賑やかな装飾を施したバイクが一台、出番を間違えた御神輿のようにどるどるどるどるっと目の前を通り過ぎてゆく。ほどなく今度は、携帯電話で話しつつロクに前も見ず片手でハンドルを握った男の運転する車が逆方向に走ってゆく。⎯⎯⎯⎯⎯そして再び静寂。

 まだ信号は変わらない。横断する人間もほとんどいないこの時間帯は、一方の青信号が長くなるように設定してあるのだろう。ことによるとこのまま朝まで変わらないことだってあるかもしれない。でもせっかくだからもう少し待ってみることにする。

 深呼吸をしてみる。ひとぉーつ、ふたぁーつ、みぃぃーっつ。頭上では、まばらな雲の間で、満月を少し過ぎた月がやや控えめに輝いている。
 ふと、この気分は何かに似ているなと思う。待つ意味もない信号の前で、「何もしていない」この状態。これは「瞑想」に近い感覚ではないか。車が往き過ぎる、人が横切る、風が吹く、月が光る。それらをただ眺め、待つ、そのこと自体に没入していく。これは瞑想だ。
 考えてみると、日常の中で何もしていない状態というのはあまりない。食事の後などに一休みしているときでさえ、頭の中では次の仕事の段取りや諸々の些事が渦巻いていたりする。何もしていない、そのこと自体を自覚し、ましてやそれを「楽しむ」ようなことは殆どないのではないか。

 根がせっかちなので、なかなか物事をじっと待つことができない。携帯電話やメールなど、今はその「せっかち」に手を貸す道具も数多いせいで、ややもするとこれが普通かなどとも思ってしまうが、人間はそんなリズムで暮らしてない期間の方が長かったはずだ。最近になって「スローライフ」などといわれるようになったが、なんのことはない、それが本来の姿なのだ。誰かにメールをして、その返信が遅かったりするとついイライラしてしまうが、そのこと自体、既に病んでいる証拠だろう。

 時代小説などを読んでいると、会話の中で「一刻ほど待たれい」などという台詞が出てくる。さらっと読み流してしまうが、よく考えるとおいおい二時間も待つんじゃねぇか。平均寿命が現代より短かったことを思うと、もっとあくせくしていて当たり前な気もするが、かつてはこんなリズムで暮らしていたのだ。

 煙草をやめたら月々の小遣いがいくらか浮く筈なのに、実際にやめてみたらさほど浮いてる気がしない、なんてこともよく聞くが、時間についても同じようなものなのかも知れない。メールやネットで効率よく物事が進み、その分時間ができるはずなのに、実感としてはむしろ余裕がなくなっている。

 そのあたりまで考えたとき、信号がようやく青に変わった。だが、渡ってしまうのがもったいない気がする。もうしばらくこの場に留まっていたい。

 風の音に耳を澄ませる。流れ行く雲、月の光。深夜の交差点で。

 しかし端から見るとただの不審者だな、これは。

未分類 | 00:36:42

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。