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廃墟の中に
 先日書店で「廃墟」ばかりを撮影した、写真集のような、一種のガイドブックのような、一風変わった本を見かけた。そういうものに興味を示す人が他にもいると知って、妙に感心したが、朽ちかけた建造物には僕も非常に興味を引かれる。住宅の広告で「呼吸する家」などとよく言われるが、人の住まなくなった建物は呼吸を止めてしまうのか、またたくまに荒れてゆくものらしい。

・・・・・静寂だけが支配する部屋、色褪せたカーペット、ところどころが破れたソファー、もう主を映すことのない鏡、遮断された外界から差し込む、無機質に明るい陽光、その光の中で音もなく降り積もってゆく埃と「終わってしまった」時間の泡沫・・・・・

 個人的には、その文化的価値とは無関係に、いわゆる「日本家屋」は、いかに荒れ果てようと廃墟とは呼びがたい。僕の中でこれらは「廃屋」である。「廃墟」とは、日本のものに限って象徴的にいうなら、例えば「昭和」の、それも比較的近い時代の匂いが残っているものでなければならない。それが鉄筋コンクリート造りならなお良い。
 それはつまり、過去に自分が住んだ家との共通項を「廃墟」に求めるということだ。これなくしては「ああ、古いね、荒れてるね」ということに終始してしまい、それ以上の精神的活動は行われない。日本家屋に住んだ経験はないのだから当然かも知れない。
 僕にとって意味があるのは、その共通項によって、廃墟の中に、自分が置いてきた何かを見出そうとすることだ。写真集のページを見つめ、確かにそこにいた人々の記憶の残滓のようなものを感じとろうとする。確実に存在したにも関わらず、もう確かめる術すら残っていない人を、モノを、出来事を、記憶の彼方から呼び戻してそこに重ねてみる。そこには、今、ここにはない、何か大切なものが潜んでいるような気がする。その一方で、所詮それらは「閉じられた本」なのだと改めて思う。開いて眺めてみたところで、何がどうなるものでもない。

 僕は写真集を閉じ、書店を出て、通りに目をやる。明日になれば、あったことかどうかも判然としない「今この時」が確かにそこにある。しかし、それを手にとって確認することは実は誰にも出来ないのだ。

未分類 | 01:39:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
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