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トイレで爽やか
 男性用トイレの前に女性が立っていた。その前を通って中に入ろうとすると、入れ違いに男性がひとり出てくるところだった。彼女の連れの人だろうとなんとなく思っていたらそうではないらしく、彼はこう言った。
「いや、いませんけど?」
 それを聞いた彼女は驚いたように、
「え!?いませんか!?4才の男の子なんですけど・・・」
 と答えた。どうも彼女の子供が見当たらないらしい。男性は戻ってくると個室(2つあった)の隅々まで見て回り、再び彼女に告げた。
「いや、やっぱりいませんけど・・・」
「え!?」
 もとよりそれほど広いトイレではない。見回るまでもなく男の子などいないのはすぐにわかる。あ、これは騒ぎになるかもと思った時、なんのことはない、すぐ隣に併設されていた多目的トイレの中に男の子がいるのがわかって事は落着した。この間15秒ほどか。
  
 三たび戻ってきた男性にぼくは思わず、大変でしたねという感じで笑いかけた。普段こんなことはめったにない。彼も苦笑しながら「いや、全然知らん子ォなんですけどね・・・」と言った。ぼくは並んで用を足しながら、いて(みつかって)良かったです、と短く返し、先にトイレを出た。

 エピソードとも言えないほどのささやかな出来事だが、何か不思議な後味があった。普段、見も知らぬ人に笑いかけたりすることは殆どないのに自然に笑顔が出たこと、それに対して彼もまた自然に応じてくれたこと。お互いひと言ずつのやりとりではあったが、そこに一瞬生まれたのは大袈裟に言うなら「純粋な交流」だったのかも知れない。

 日頃はメールや電話にせよ対面にせよ、連絡事項なり何かの目的があって人とコミュニケーションをとることが殆どだが、こういった「無目的な」交流もたまにはいいものだ。暮らしの中の彩り、とでも言おうか。

 よし、今日からトイレでは他人に微笑みかけるようにしよう。

 ・・・え、それは違う!?

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未分類 | 11:27:39
大きさとか低さとか
 モーリス・ラヴェル作曲の「ボレロ」という曲がある。「ボレロ」とは元々はスペイン発祥のダンス音楽の一種だが、今日ではこのラヴェルの「ボレロ」の方が有名かも知れない。題名は知らずとも誰もが聴いたことのあるこの曲には、いくつかの特徴がある。まず、最後の僅かな部分を除いて、たった2つのメロディがひたすら繰り返されること、そして曲全体がひとつの大きなクレッシェンド(徐々に大きくなること)で出来ている、などだ。
 冒頭、ほとんど聴き取れないほど小さな小太鼓と弦楽器のリズムから始まって、それが次第に大きくなり、終局ではあらん限りの大音量でなだれ込むように曲を閉じる。例えばカーステレオや歩きながらイヤホンなどで聴こうものなら、最初は全く聴こえず最後は鼓膜が破れる(かもしれない)という、全くもってBGMには不向きな曲である。

 さて、この「ボレロ」ほどではないにせよ、一般にクラシック音楽はダイナミック・レンジ(音量の幅)が大きい。それに対してポップス、特に近年のものはダイナミック・レンジが非常に狭い範囲に設定されている。ごく端的に言えば「小さな音がない」ということである。たとえ歌手がささやくように歌っていても、それは耳元で(更に言うなら鼓膜のすぐ前で)ささやいているような作りになっており、無音〜最大音量を0〜10とすると、現在耳にするポップスの多くはおよそ8〜10の範囲で作られているという。非常に狭い。こうなるともう「ダイナミック・レンジ」とはいえないような気もする。どちらが良い悪いというより、現代のライフスタイルでは、部屋の大きなステレオよりも携帯端末やカーステレオなどで聴く機会の方が多いだろうということで、このように作るわけだ。

 音量と同じく、音域というものにも、上はいわゆる「超音波」から、下は「超低周波」まで幅がある。これについても、ある音域を削ったり足したりということが──粘土細工みたいだが──可能である。近年すっかり見かけなくなったMD(ミニディスク)は、CDに比べて随分コンパクトだったが、あれはあのサイズに情報を収めるために、人間に聴こえない音域を省いてあるそうだ。イヤホンなどで聴く分にはあまりわからないが、大きなスピーカーで聴き比べると確かにCDよりも音が「薄っぺらい」感じがする。聴こえない音域とはいうものの、認識できないというだけで、実はけっこう聴こえているのかも知れない。

 逆にこの「聴こえない音域」を意識的に利用した怖い例もある。大戦前のナチスだ。
 ヒトラーの演説は夕方にされることが多かったというが、この時演壇の下部に仕込んだスピーカーから耳には殆ど聴こえない「超低周波」を流しながら演説したとものの本にはある。
 極端に低い音というものは、人を一種の催眠状態にする。ハードロック系のライヴなどでは限界まで増幅されたベースやドラムの低音を体に受け続けることで「音に酔う」ということがある。アルコールと同じく悪酔いするわけだ。日本の盆踊りでも櫓の上で大太鼓を叩くが、延々と続く踊りの列や、皮膚に直接響いてくる大太鼓の振動、実はこれらは「集団催眠」のための条件を満たすことになっているらしい。踊り続けるとハイになってくるというのは、一種の催眠状態に陥っているともいえる。
 ヒトラーの話に戻れば、時間帯は人々が仕事を終えて疲れている(いくぶん判断力が落ちている)夕方、そこに密かに流される超低音と断定調の演説、それらによって知らず知らずの内に「ある方向」へと誘導されてゆく群衆・・・・想像するとなかなか怖い。
「音」の利用法にも色々あるけれど、やはり平和や幸福につながるものであってほしいものである。


未分類 | 14:53:50
アカペラとゴスペルについて
えー、今回もマジメに音楽の話題ですが、よろしいですか??


 長くアカペラをやっていると、時折「アカペラとゴスペルはどう違うのか?」という質問を受けることがあります。
 映画「天使にラブソングを」によって日本でも大流行した「ゴスペル」とは「黒人による、プロテスタント系キリスト教の宗教音楽」の事であり、Good Spel──福音──が変化した語とされています。昨今はポップスの曲などをゴスペル風にアレンジして歌うということもさかんに行われますが、それらはあくまでも「ゴスペル風」なのであって、ゴスペルとは言えません。
 一方の「アカペラ」とはこちらも本来の意味は「無伴奏で歌われるキリスト教の宗教曲」のことですが、今日では無伴奏での歌唱全般を指す言葉として広く認知されています。
 言葉というものは時代によって変化するものであり、その意味するところもまた時と共に変わってゆくので、あくまでも現時点での定義ということになりますが、私見も交えて述べるならば、ゴスペルは音楽のジャンル、アカペラは演奏形態ということになるでしょう。よって冒頭の問い「アカペラとゴスペルはどう違うのか?」というのは、例えて言えば「弦楽四重奏と演歌はどう違うのか?」という問いと同じであるといえます。比較自体が成立しにくいわけです。(ちなみに米国のアカペラコーラスグループ「TAKE6」の初期の作品は、形態はアカペラで内容はゴスペル、というものが多くありました。ぜひ聴いてみて下さい)

 ところで「ストリートコーナー・シンフォニー」という言葉をご存知でしょうか?アメリカ発祥のアカペラの一形態といえますが、楽器を買うお金のなかった若者たちが、当時の流行歌などに簡単なハーモニーをつけて街角で歌ったものを、こう呼ぶことがありました。「シンフォニー」といういささか大仰な呼び方が、いかにもとぼけていて僕は好きなのですが、今日日本で耳にする機会が多いのは、宗教曲から派生したというよりも、このストリートコーナー・シンフォニーの流れを汲んだアカペラの方かも知れません。日本では山下達郎氏の多重録音による一人アカペラ、その名も「On The Street Corner」シリーズがよく知られています。

 TAKE6に代表される高度かつ複雑なハーモニーは非常に魅力的ですが、ストリートコーナー・シンフォニーのシンプルな3声のハーモニーにも無限の可能性を感じます。どちらにもそれぞれ良さがありますね。
 我々 Be in Voices は、結成時にたまたま5人だったのですが、考えてみると5人というのは、シンプルなハーモニーにも「複雑系」にも対応できる、ちょうど良い人数であると思います。調理しだいで色んな料理ができるという感覚でしょうか。 


未分類 | 01:33:49
アカペラの編曲について
久しぶりに音楽の話題。

何人かが集まって、さァアカペラで歌おう!という時、何らかの楽譜を用意するのが一般的だが、市販されているものに満足できない場合、自分達で編曲(アレンジ)を施すことになる。

僕が編曲する上で心掛けているのは、その曲が本来持っている「良さ」を極力ジャマしないようにすることだ。大抵の曲にはポイントとなる箇所があって、それはいわゆるサビのメロディーなどのわかりやすい部分であるとは限らず、自分がその曲のどこに魅力を感じたかという、ごく個人的な「ポイント」がある。これがない曲というのは、編曲するにも非常にやりにくい。例えばそれが、他人にとってはサラリと聴き流してしまう間奏の中のワンフレーズなどであっても、そこに自分が「イェ〜イ!」と感じたなら、それを起点に編曲のアイディアが広がるということが少なくない。

その曲が、既に知っている曲の場合、原曲(ここで言う原曲とは、△△という曲を▽▽が歌ったバージョンなどの「カバーもの」も含む)を改めて聴き過ぎない方がいいこともある。編曲するつもりで注意深く聴くと、これまで気づかなかった音やリズムを発見することがあるが、それよりも覚えている範囲でのイメージ、印象的なフレーズや響きなどを優先するのである。

これは何故かというと、大抵の曲は、それがポップスであれジャズであれ、5つ以上の音が鳴っているわけで、これを残らず声にするのはそもそも無理だからだ。何か特徴的なフレーズが鳴っている時、そのバックで流れる他の音の中には、思い切って省いた方がいいものもあったりして、この辺りは、こういう時にはこうする、と一概には言えないところがある。

僕の場合は、五線紙に向かうまでに何度もその曲が頭の中で流れるが、自分でも面白いのは、この時アカペラで鳴るとは限らないことである。それはジャズのコンボであったり、弦楽四重奏であったり、フルオーケストラであったり、その曲にとって最も自然、或いは効果的だと思われる演奏形態で、頭の中で完成形が鳴る。それをBe in Voicesの場合なら5つの声にどう振り分けるか、それがつまり僕にとっての「編曲」ということになる。で、メンバーに「ここ、ティンパニーみたいにやってくれ」と無茶な注文をしたりする。だってティンパニーが聴こえるんですもの。

こうして書き上げた楽譜をみんなで歌ってみると、今ひとつ面白くない、ということもある。頭の中ではいい感じであるにも関わらず。失敗である。僕の場合こんなケースでは「欲張りすぎ」が多い。聴こえる音をあれもこれも書いてしまった、などだ。ティンパニーとかね。

そんな時にYサマあたりが「そんなん、こうしたらええんとちゃいますのん?」などと、その場の思いつきでぴーひゃららと無責任なことを言ったりする。んで、試しにそのようにやってみたら、これがまた面白かったりしてね。


・・・・なんか、くやしー感じー。





未分類 | 02:21:42
誰カガ見テイル…
夜道を歩いていると、ふとどこからか視線を感じる。見回してみても誰もいない。・・・・いや、いた。誰かと思えば、月である。

月という天体は、思えば随分不気味な存在である。常に同じ面をこちらに向けて地球の周りを回っているというが本当だろうか。そう言われると何かこちらを監視しているかのような印象もある。そういう不思議さについては昔の人も色々考えたようで、我々には見えない、月の裏側には文明があるのぢゃとか、いやいや実はキミ、月というものはあれ自体が人工物なのぢゃとか、その手の話はよくある。アホらしいけど行ったことないので断言はできない。

この季節、ふと見ると、ぎょっとするくらい大きな月が夕暮れの空に浮かんでいることがあって、状況によっては風流というよりも一種の恐怖の様なものを感じる。「ちょ・・・ちょっとぉ、ナニ見てんですか?」と言いたくなったりもする。満月の夜が何となく落ち着かないのは、なにもぼくがケダモノに変わるからではなく、高い所から目玉全開でじぃぃっと観察されている気になるからだろう。

月はまた、太陽の光を受けて輝いているが、音楽でも(数えたことはないけど)太陽より月の曲の方が多いのではないか。太陽のパッカーンとした単純明快さと違って、あの何を考えているのかよくわからない感じが想像をかき立てるに違いない。
実際にはその大きさも、地球からの距離も比べものにならないくらい違うのに、時に太陽をも凌ぐ存在感をもって、月は今夜も我々をぢっと見ている。悔しいので今夜は睨み返すことにしよう。

・・・・と思ったら、雨だわ。

未分類 | 13:39:25
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