スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告 | --:--:--
ジジツを見る
 さくらが満開を迎えた。子供の頃はさくらという花は今ひとつ好きになれなかった。花というよりあの樹全体を、である。あれはよく見ると随分と不気味な樹だ。梶井基次郎の「櫻の木の下には」を読んだとき、自分の持つイメージに非常に近いものがあって驚いたりしたものだ。
 それから幾星霜、近頃はさくらを見て、ふと美しさを感じたりするようにもなった。逆説的だが感受性が鈍麻したのかもしれないな。とほほ。

 自宅近くを流れる川に覆いかぶさるようにして、明日か明後日には満開かという風情のさくらが枝をしならせている。その様が美しかったので、知人に送ってやろうとカメラ(っちゅうかすまほ)を構えた。ところが、できた写真を確認するとどうもしっくりとこない。さほど美しくないのだ。距離をつめ、また離れ、アングルを変えて何通りか撮ったが、やはり今ここで肉眼で見ているほど美しくは見えない。しばらく画面を見て気づいた。
 さくらの下を流れる川にゴミ袋が浮いていたのだ。のみならず、少し離れた所には壊れたカサが。これでは台無しだ。美しい写真になるワケがない。しかし待てよ、肉眼で見ると、やはりそれらのゴミが視界に入っていながら、なお花は美しいのである。これはどうしたことか。なぜそれが写真には写せないのか。ナニ、写真撮るのがヘタ?うむ、そうかもしれないが、それだけではない。
 
 これはつまり、我々がなにかを見るときには多かれ少なかれ「集中」せずにはいられない、ということではないか。別のいい方をするなら「フォーカス」するとでもいおうか。美しいと感じた瞬間、目はさくらに「フォーカス」し、同次元的に存在するゴミ袋は気にならなくなる。これが気分次第ではゴミ袋の方にフォーカスし、そうなるとせっかくのさくらは意識に上らなくなるに違いない。そしてどちらにフォーカスするにせよ、それは一種の「脚色」といえる。
 どうせなら「美しく」ものを見たいものだが、脚色という意味では同じことである。それらは「事実」そのままではない、ということだ。

 よく心理テストなどで使われる話題に「コップ半分の水」というのがある。コップに半分だけ入っている水を見て「半分もある」と思うか「半分しかない」と思うか、というアレだ。よくできた話だと思う反面、あんなので心の傾向がわかるなら苦労はないような気もする。

 これについて、個人的には「水が半分入っている」という風に考えたい。楽観でも悲観でもない、考えようによっては面白くもなーんともない意見かも知れないけれど。それ自体は変わらないさくらを見て、今日は美しいなぁなごむなぁなどと言っている自分が、かつては同じものに、この上ない不気味さを感じたのだということを忘れずにいたい、そう思うのだ。

 それができたからって、どうってこたぁないんだけどさ。

未分類 | 02:04:23
先見の明
 昨年、年末のクソ忙しいさなかに、長年慣れ親しんだ携帯電話をスマートフォンに替えた。機種を変更してしばらくはメールすらもままならないことはわかっていたのに、あとさき考えずに替えてしまったせいで、その夜はてんてこ舞いする羽目になった。まったく、思いつきで行動するものではない。
 今、身近な道具で最も進化、進歩の著しいものといえば、何をおいてもまずこのスマートフォンだろう。使ってみると確かに便利だ。僕は人も知る方向音痴だが、今やスマートフォンのナビゲーションシステムのおかげで、道に迷うことが格段に減った。完全に無くならないのは方向音痴云々ではなくて、それ以前にうっかりしているだけである。入力する行き先を間違えていてはナビも役に立つはずがない。こーゆーのを「豚に真珠」というのだがそんなことはまぁどうでもよろしい。
 
 さて、逆に最も進化、進歩しない道具は一体なんだろうか。僕の考えでは「傘」である。傘の歴史をひもといてみると、元々は古代中国で貴人の権威の象徴として使われた日除けとしての傘がはじまりであったらしい。その後雨傘も誕生し、時代を越え、国を越えて広まったが、基本的な形はずうぅぅぅっっと同じである。円く張った布やら革やらビニールやらの真ん中に柄がついていて、これを持って歩くのだ。しかし日除けならともかく、雨傘というものは雨に対して誠に非力なものである。風が強かったりすると、せいぜい上半身が濡れないようにするくらいのものだ。僕は巨大な傘を持っているが、(これについては2009年5月の『いい天気の日』を参照されたい)それでも雨に濡れないとはとてもいえない。構造を考えるとわかるが、円形に張った布の中心に柄がついていては、使用者は真ん中にいることはできない。常に円の半分しか使えないわけで、つまり傘の半分はムダなスペースとなる。恋人同士によるアイアイ傘はこの限りではないが、アイアイ傘のなんたるかについては、何となくくやしいので、ここでは深入りしない。してたまるもんですか。
 更に致命的なのは片手が塞がるということである。荷物の多いときに片手が塞がるというのは甚だ不便だ。ワンタッチで開くようになっている「ジャンプ傘」というのがあるが、あれは画期的発明であった。(近頃はワンタッチでなんと『閉じる』傘もあるらしい)傘そのものの発明以来、あれが殆ど唯一の「進化」ではなかったか。

 いにしえの貴人は召使いに傘をささせただろうけれど、現代でそれにあたるのは、例えば車である。他人の手を煩わせるという意味ではタクシーがそうかも知れない。雨に濡れないためにタクシーを使う、とか地下道を歩くというのは、いわば都市機能の進化であって、傘そのものの進化ではもちろんない。もしもどこへ行くのもタクシーや地下道が使えるのならば傘という道具は不要に違いない。

 ところで、傘の形として最も機能的なものは、我が国に昔からある「笠」ではないだろうか。昔話の「笠地蔵」がかぶっているアレである。折り畳んでカバンにしまっておけるような「笠」を作れば非常に便利に違いない。両手が空くというのがなんといっても美しい。大きさによってはかなり効率的に雨を防げるのではないか。
 ただ、現時点で「笠」をかぶった姿というのは、甚だ異様だ。カッコワルイことこの上ない。しかしねしかしね、昨今流行りのボディバッグも、ハンティングキャップやブーツも、流行る前に想像すると格好悪かった筈だ。その昔、ウェストバッグが便利そうだというので使おうとしたが、当時はそんなブサイクなものはどこにも売っていなかった覚えがある。

 冒頭でスマートフォンによるナビについてふれたが、こういうシステムについて、僕はかつて2002年に書いた文章の中で言及している。ボンヨーな僕は夢見るだけであったが、どっかの天才がこれを実現してしまった。ちっちっち、発想だけならオレにもあったのになぁ、などとほざいてもアフターフェスティバルあとの祭りである。
 
 というわけで、ここで宣言しておく!近い将来、ファッショナボーな「笠」が雨具として再び脚光を浴びる日が来るであろう!

・・・・そーゆー日が来なかったからといってサイバー攻撃とかしないでください。中傷メール送ったりもしないでください。よろしくお願いしますね。









未分類 | 14:28:08
けむし
つい先日、11月だというのに大きな毛虫が道路を横切って行くのを見た。
全身を波打たせながら、懸命にいずこかへと向かっている。近頃ではめったに見かけない大モノだ。
だが、いかに大きいとはいえ、所詮は毛虫だ。こんな道路のど真ん中を這っていたら、車かバイクに踏みつぶされてしまうか、鳥のエサになるのがオチだろう。

生き延びれば・・・無事に成長すれば、あるいは美しい蝶になるかも知れないけれど。

未分類 | 01:31:09
おのれ運動会
 つい生活が夜型になる。早寝早起きが健康的なのは百も承知だが、演奏のある日はたいてい夜だし、帰ってきてひと息つき、何か雑用などをしているとあっという間に深夜になってしまう。必然的に朝(というのがいささか恥ずかしい時間帯だけど)は遅い。
 気候のいい時期は窓を開けて寝るが、初秋の頃に毎年「敵」がやってくる。運動会だ。我が家の近隣には小・中学校と幼稚園、保育園などがあり、これらが入れ替わり立ち代わり運動会をやらかしてくれる。運動会の迷惑なところは当日のみならず「練習」というやつが何日も続くところだ。なにもそんな大音響でするこたぁないだろうと思うのだが、ヤケクソのような音量で「音」を流し(音楽、とは断じて言わない)、スピーカーは「駆け足!」だの「前へ進め!」だのとがなり立てる。これが始業と同時に連日繰り返される。とても寝てなどいられない。寝てるけど。
 さて、気候が良くなると、夜の公園でたむろする連中も出てくる。深夜まで声高に騒いだり、バイクを空ぶかししたりする。こちらも大迷惑だ。とっつかまえて毒グモの群れの中に放り込んでやりたくなる。

 ところで、こんな問いかけは反感を招くかもしれないが、深夜に騒ぐ連中と運動会の練習、どちらが悪質だろうか。
 「夜騒族」はまず間違いなく、自分たちの行為を悪であると認識している。近隣の家に迷惑をかけ、安眠を妨害していることを自覚してやっている。彼らはおそらく本心ではそれを「楽しんで」いるわけではないのではないか。いつまでも続くわけではない馬鹿騒ぎを、そうとわかってやっているだけだ。彼らにとってウザい「大人」という存在に、彼ら自身が否応なくなってゆく、そういう「ヤなこと」から一時的に逃避しているに過ぎないだろう。別に連中の肩を持つ訳でもなんでもないが、そう思うといっそ哀れな気もしてくる。
 一方、学校行事である運動会の練習を朝からする、というのは、別に悪いことではなさそうに見える。しかし学校の周りに住まう人々が、みんな朝起きて夜寝る生活をしているわけではないだろう。夜勤明けの人もいるかもしれないし、飲食店関係の人なら、やはり昼夜逆の生活を送る人もいるかもしれない。そういうことには一切配慮せず、こんな時間に寝ている方が悪いのだとばかりに大音響をまき散らす。これははっきり言うと暴力である。だがそれを行使する側は、よもやその行為を暴力、悪だとは思うまい。そこがこの上なく悪質だ。
 町中の、しかも学校施設の近くに住んでいるのだから、ある程度はやむをえないかもしれない。運動会は大嫌いだが、だからといってこんなものやめてしまえとまでは言わない。それを楽しみにしている人も多いだろうから。だが果たして、練習の段階からあれほど近隣に響き渡る音量でやる必要があるのだろうか。それは校庭の、今現在運動会の練習をしている生徒たちにだけ聞こえればいいのではないか。
 ほんの少しスピーカーの音量を下げてくれれば、なべて世はこともなし、それ以上うるさいことはいわない。だが「正しいことをしている」と信じて疑わないところに異議申し立てをするのは、耳栓でもして我慢する方がマシだった、というような事態を招くこともないとはいえない。

 そんなことをあれこれ考えているうちに、今年もニックキ運動会の時期は過ぎてしまった。しかしもはや窓を開けッぱなして寝るにはちと寒い・・・やれやれ。

 きっと、学生時代に運動会を忌み嫌ったせいで、運動会の神さまに嫌われてしまったに違いない。「キサマに安眠などさせぬ」とかね。オイオイずいぶん人間の小せぇやつだな。・・・あ、神か。

未分類 | 12:39:40
ノックの音が
 早くすませようと思いながらも、楽譜を書いているとついつい深夜になってしまう。その日もいつものように近隣が寝静まった中、独り机に向かっていた。
 
 ぼくの住まうマンションの西隣には田畑があって、建物はない。4階なので割と遠くまで見渡すことができる。夏ともなると美しい夕焼けが見られる日も多いが、今はもう深夜ウシミツドキ、ブラインドを下ろしてせっせと譜面を埋めていた。

 どれくらい時間が経ったろうか、ふいにその目の前の窓から、コンコン、と、

 ・・・ノックの音が。

 机は西側の窓に面しており、つまり窓の外側にはなーんもないんである。鳥が止まれるほどのでっぱりすらない、のっぺりとした壁だ。折しも息抜きに坂東眞砂子の「死国」という小説を読んでいて、これは、土佐の土俗的な風習の残る村に、ある夏の盆、死んだはずの幼なじみが帰ってきて、そこいら中が甦った死者であふれるという、誠にユカイかつタイムリーな作品である。

 ボ、ボン、ボン、盆♪

 などと歌っている場合ではない。のののノックの音が。誰か帰って来はったんやろか。ひぇえ〜。
 ・・・空耳だ、空耳。ソラミミ、ドレミ。いや、こんな明瞭な空耳などあるものか。コンコンッていったじゃないちゃんと2回鳴ったじゃない虫や鳥がぶつかったんなら羽音も聞こえるはずじゃない。
 マンションの4階にある窓をノックできる奴はスパイダーマンかバットマンくらいであろう。しかし彼らはたしか米国在住のはず。そぉ〜っとブラインドを開けて窓の外を見ると、血まみれの女の子が虚ろな目をして宙に浮いており・・・などということはもちろんなくて、ただいつものように平和に町が眠っているだけだ。実に不愉快だ。


 星新一に「ノックの音が」という短編集がある。これは全編「ノックの音がした」という一文から始まるのだが、ノックの音というのは想像力を掻き立てるものがある。特に夏の深夜、独り自室で伝奇小説を読んでいるときなどには。
 夏目漱石にも「こんな夢をみた」で全編が始まる「夢十夜」という作品があるが、思わずその後の展開を想像してしまうという点では共通するものがある。ぼくの場合、えてしてあまり心楽しい想像にはならない。ノックの音がして、ハッピーな微笑ましいことが起こったってしょうがない。やはりそこに何らかのトラブル、不可解、魑魅魍魎など「歓迎できない」ものがなければ話として面白くない。しかしそれはあくまでフィクションの話である。現実的にはできることなら、

 「ノックの音がした。窓を開けてみると幸運の女神が、微笑むどころか腹を抱えて笑っていた」と、こういきたい。

 ・・・どこが現実的やねん。ははは。


未分類 | 12:31:46
次のページ

FC2Ad

FC2ブログ